2019年と2020年

BANJOYA TAKUMI


2020年が今日で終わる。今の気持ちは今しか書けないので、未来の自分が振り返って思い出せるように書いておこうと思う。2020年はいろいろあったがその前に2019年のことを思い出すと、年末に振り返りを書こうとしたが、書いていく程に気分が落ちていったので書き切ることができなかった。せっかくなので2019年をまず思い出しながらまとめていって、その後に今年の分を書こうと思う。

2019年前半

この年を漢字で一文字で表すなら「病」とか「落」とかになると思う。この頃自分は "NPOの寄付集めを手伝うNPO" を自分でやっていた。ヒーローズという団体名で社会のヒーローを支えたいという想いで活動していた。NPO界隈の中では自分がかなり若かったこともあり、いろんな方に応援していただきながらちょっとずつ前に進んではいたが結局辞めてしまった。NPOにお金が回らないと解決できない課題がたくさんあったし、NPOの方も寄付をうまく集める方法を探していたので、自分のやっていた事業は正しい方向をむいていたと思う。

しかし、自分たち自身の活動費として寄付を集めていたがそれがうまく集められず、毎日何食か抜いて生活していた自分も限界がきた。貧すれば鈍するだ。朝起きて朝ごはんを抜き、昼ごはんは我慢して夜まで耐える。夜になると空腹が限界まできているが、寝てしまえば忘れられるので我慢して寝る。すると1日分の食費が浮く。これを日常的に繰り返さないと生活できないレベルだった。今考えても恐ろしい。そんな状態で活動しても持続できないと思っていたが、未来は明るいと信じていたのでヒップホップを聞いて頑張っていた。

チームもうまくいっていなかった。NPOの寄付集めを手伝うNPOというニッチ中のニッチな事業に共感して、かつ自分みたいな未熟な若い奴のもとで活動してくれる珍しい人はほとんどいない。日本中探してなんとか5人集めたが、採用する時に期待値調整をしたり、うまくマネジメントしたりなどは未熟な自分には難しかった。だからSlackに何か投げても誰も反応してくれないことも多くあったし、彼らに求めたアウトプットも期待していたものには到底及ばないものがあがってきた。それでも給料は出さないといけないからなけなしの金を振り込んだ。「なんで自分はこんな人たちとやっているんだ」「あいつらは仲間じゃないのか」そんなことを思っていた記憶がある。この頃には自分はもうリーダーとしてチームの現状を自責で捉えることなんてできず、他責にしてメンタルを保つしかなくなっていた。本当に未熟だったのでこの時のメンバーには申し訳なさしかないが本当にキツかった。結果的に適応障害のような症状が出て誰とも連絡とれなくなった。

NPOの寄付集めをサポートするNPOが寄付集めに困り、己の未熟さから生まれたチームの状況にストレスを感じてメンタルが潰れた。身近な数人以外と連絡を取ることをやめ、SNSにも投稿もできなかったので社会的に消えたような状態だった。そんな時に平成が終わり令和がやってきた。みんなが平成を振り返って令和の抱負を発表したり、お祭りムードで日が変わるのを楽しみにしている中、自分はスト缶2本を飲みながら近所の公園でひとりで泣きそうになっていた。正直いって本当にキツかった。自分に価値がないとひたすらに感じる。どうすればこうならなかったんだろうとずっと考えていた。

この少し前か少し後、サークルの人たちと大勢で飲む機会があり、そこでベロベロになって彼女と2人で自分の家に帰ってきた。ここで記憶を失って次意識が戻った時には自分の制御が効かなくなって大声で泣き叫んでいた。自分に価値がないこと、大勢に迷惑をかけて期待を裏切ったこと、ここまで育ててくれた親に対しての途方もない申し訳なさ。それらを大声で叫んでいた。それを横でなだめてくれた彼女はこんな状態の自分を初めて見たからとても怖かったと後で教えてくれた。でもその時ずっと話を聞いて一緒に泣いてくれたのをとても覚えている。やっと泣けた、やっと気持ちを吐き出せたという感情になった。

2ヶ月くらいしてからヒーローズというNPOを辞めることを決めた。気持ちがちょっとずつ回復していたので活動を再開することも考えたが、状況は別に何も変わっていないのでまた自分が潰れるだろうと思い辞めることにした。応援してくれていた人たちや迷惑をかけてしまった人たちには本当に申し訳なさで一杯だったが、もう半分でどこか「やっと終わりだ」という気持ちもあった気がする。関係のあった方々には今でも感謝と懺悔の気持ちで一杯です。本当にすみませんでした。

2019年後半

2020年現在、自分はデザイナーをやっているがデザインはこの頃に始めた。もともと小さい時から物をつくるのが好きだったのと、大学の先輩でデザインをやっている人がいてかっこいいと思ったからだ。しんどくて潰れていた時、何か別のことを考えないとキツかったのと、何か自分の手で稼ぐ手段が必要だったので、このタイミングでデザインを始めた。

いきなり仕事が貰えるはずもないのでまずは自分でサービス作ってデザインやれればなということで Progate も始めた。そんな時に三谷が家に来始めた。三谷も彼のプロジェクトがうまくいかず、何か自分で作らないといけないと感じてプログラミングを始めていた。そこで二人でサービスを作ろうという話になり、名言共有サイトを作ることになった。夜に集まってこのサービスのアイデアで盛り上がっていつの間にか朝になっていたのを覚えている。Googleに勝てるとか、「はい、このアイデアはユニコーン〜」とか言って笑っていた。ちなみに名言共有サイトは自分がメンタルキツい時を思い出して、ちょっとだけそういう自分のために作った。

初めてサービスを作ったしUIデザインも初めてだったので色々勉強になった。ちょっとだけフロントエンドのスタイリングも手伝った。10月頃にはほとんど出来上がっていたが、作り切ってみるとこのアイデアはユニコーンじゃないことに気づいた。だからなんとなくリリースしない空気になった。でも12月くらいに勿体無いしリリースするかとなりリリースしてみた。最初数日だけ300人ほどサインアップがあって喜んだ。

またこの頃、サービス作りながらデザイナーとしてインターンを始めた。梅田のスタートアップでマーケティングツールやATSを作っている会社に先輩の紹介で入らせてもらった。初めてデザインで給料をもらったのと、生活がようやく安定したのとで凄く安心したのを覚えている。

2019年前半はメンタルが落ちて、後半はデザイナーになったしサービスも作ってみた。新しいスタートを切ったという意味ではV字回復のようだし今振り返ると良かったと思っている。でも年末にこの一年を振り返ってnoteを書いている時は自分の生きてる価値を感じられずどんどん気分が落ちて結局下書きのままになっている。本当今振り返っても気持ち沈んでくるのでキツかったなぁという一年だった。

2020年

ようやく2020年に入った。今年の漢字は「腐」とか「負」とかだ。色々スタートしたし成長もしたと自分でも思うが、メンタリティとしては何かに負けてるという自意識でキツかったし、それ故に他人を腐すことで自己肯定感を保った。

1月から3月まではインターンしかしていない。採用管理ツールのUIフルリニューアルを全て任せていただいた。機能を削ったり、新機能として必要なものを考えるところから一緒にやらせてもらいとても勉強になった3ヶ月だった。朝から終電まで、上流から下流まで、濃い経験をさせていただいたことでUIデザインちょっとだけ出来るようになった気がする。

年始あたりに三谷と会社をやろうという話をしていた。Quoteという名言共有サイトを作ってみてプロダクトを作るのはとても楽しいと感じたこと、ゼロから自分たちで作ったものがいろんな人に使ってもらえる幸せ、逆に誰かが考えたものを作る時の物足りなさなど。こういった理由があって起業するに至った。ただ、登記費用もなければスキルもまだない。それで3月までにお互いインターンにフルコミットすることになった。

4月からは有難いことにインターンしていた会社からの受託で、週2日稼働・月20万円の契約をもらえた。これで受託をしながらプロダクト開発が出来る状態になったので三谷と会社を建てた。マイナンバーカードの発行で手間取って6月26日に会社ができた。株式会社TrashXという名前は、ぼくと三谷がゴミみたいな人だからなのだが、こんなゴミでも良いプロダクト作ってユーザーの幸せを作るぞという気持ちでつけた。

自分がメンタルキツかった時の経験から、そういう課題を解くプロダクトが作りたくてたくさんアイデアを考えた。お金がないと気持ちの余裕がなくなるからそこにアプローチするのか、色んな問題でメンタルがキツくなるから、キツくなった時にすぐ頼れるカウンセリング的なアプローチにするか。色々考えたけどキツかった時に自分は彼女、家族、友達のような親しい人に救われたのと、そういう人との繋がりをもっと感じたいしコミュニケーションもっと取りたいと思ったのでその方向で考え始めた。結局、同期性が欲しかったのとチャットじゃなくて通話という温度感のある会話がしたいと思ったのでそういうプロダクトとして roomn を作った。

iOSアプリ、SNS、若い人向け、すべて初めてだったので色んなサービスを参考にして作った。リリースできた時はとても嬉しかったのを覚えている。リリース祝いに三谷と焼肉を食べに行ったのも良い思い出だし、彼女と筒井もリリース祝いでプレゼントをくれた。